メキシコサッカーの開拓者 メキシコサッカーの日本人パイオニア、百瀬俊介さん

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メキシコサッカーの開拓者 メキシコサッカーの日本人パイオニア、百瀬俊介さん

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本田圭佑選手が移籍したことで今話題のメキシコリーグ。24年前、同国のプロサッカーリーグで初めてプレーをした日本人が、百瀬俊介さんです。前例のないメキシコでのサッカーへの挑戦、そして引退後のキャリアについて聞きました。

サッカー少年が中学卒業後に目指した未開拓の地、メキシコ

百瀬さんは小学生の時は野球少年で、サッカーを始めたのは中学生でした。中学3年間サッカーに打ち込み、3年次に卒業後の進路を考えた際、海外でサッカーの道に進みたい、と漠然と思うようになります。

サッカー歴は3年でしたが、それでも「なんとかなる」と思っていました。ちょうどその頃、初めて国立競技場にサッカーの試合を観戦しに行き、そこでプレーしていたカズさんの姿を見て、かっこいい、自分もああなりたいと思ったことを覚えています。また、ドイツでプレーしていた奥寺康彦さんが地元に講演しにきていたことも重なり、海外でプレーすることへの憧れが一層強くなりました。

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海外日本人選手の先駆けとも言える奥寺康彦氏

百瀬さんが海外を夢見た1990年頃の当時は、ACミランなどイタリア・セリエAが絶好調の時代。しかしヨーロッパに憧れをもちつつも、選んだのは父親の仕事の関係で馴染みのあったメキシコでした。

メキシコでのサッカー選手としてのキャリア

1992年、15歳になった百瀬さんは、お父さんのつてを頼りに、単身でメキシコに渡ることを決意します。知人のメキシコ人に紹介してもらいトライアルを受けたのが、メキシコ中央部のトルーカという街に本拠地がある、デポルティーボ・トルーカFCのユースチームでした。百瀬さんは自慢の身体能力と上下運動を厭わない献身的なプレーを買われ、トルーカでの一歩を踏み出しました。
午前は日系のスーパーで働き、バスを2時間乗り継いでトルーカまで向かい、午後は練習という毎日を送ります。仕送りもなく、自ら生計を立てながら異国の地メキシコで戦ったその年、トルーカはメキシコ国内のユースのリーグで初優勝します。

決してベンチメンバーではなかったけれど、後半に試合をかき回してこいと言われよく起用されていました。リーグで優勝したことで、次のプロ契約に繋がったと思います。

1993年、メキシコリーグ初の日本人プロ選手としてトルーカFCとプロ契約。その後アトレティコ・メヒケンセ、クラブ・オロ・ハリスコとメキシコリーグ内で移籍し、2シーズンプレーします。1996年にはエルサルバドルリーグのアトレティコ・マルテ・アラべに入団。メキシコ代表経験のあるマリオ・ピチョーホス・ペレス監督と同じ屋根の下で暮らしたこともありました。そして2000年には、元メキシコ代表監督を務めたエンリケ・メサ監督からのオファーを受け、再びトルーカFCに戻ります。


今年クラブ創設100周年となったトルーカのイベントに招待された百瀬さん

ビジネスマンとしての新たなスタート

トルーカで1年プレーした後にサッカー選手を引退。現地で食品を扱う日本の商社で働くことになり、展示会の企画や営業でメキシコ国内を飛び回る生活を送ります。

メキシコ人の日本食に対する興味関心は高くて、マーケットが伸びている時に働けました。ここで学んだビジネスマンとしてのスキルやマインドがその後のキャリアに繋がっていると思います。

30歳を目処に帰国することを決めていたため、4年間メキシコで働いた後、日本に戻りました。スポーツの現場で働こうとしていた百瀬さんの新天地となったのは、横浜FCでした。営業や事業部部長としてチームの全体を見ることで、選手としての立場ではなく、裏方としてチームをサポートする視点ももつようになりました。

横浜FCにスタッフとして在籍中、日本サッカー協会に出向し、クラブワールドカップのチームリエゾンオフィサーとして働いた経験もあります。チームリエゾンオフィサーとは、大会の開催中、各チームにお世話役としてつく責任者のことです。2007年、百瀬さんは、トルーカ時代の恩師、エンリケ・メサ監督率いるパチューカの担当になり、監督やスタッフとして働く、メキシコ時代のチームメンバーらと再会を果たします。メキシコの地で共に戦ったメンバー達に再び出会えた喜びもつかの間、パチューカはアフリカ王者チュニジアのエトワール・サヘルに初戦で破れ、1試合のみのプレーで帰国することとなりました。当時エトワール・サヘルは世界の舞台に姿を現すことのないクラブで、強豪パチューカが負けるとは誰も予想していませんでした。

ロッカールームは涙の嵐。会長達も含めて、メンバー全員で絶対またこの場所に戻ってくるって誓いをしている姿に鳥肌が立ちました。そして翌年の2008年、本当にリベンジしに戻ってきたのです。

その時のキャプテンであるゴールキーパー、ミゲル・カレロ選手から、日本での戦いの証に、百瀬さんはユニフォームとバンダナを貰います。しかしその4年後、カレロ選手は脳梗塞を患い、帰らぬ人となりました。そして今年、百瀬さんはユニフォームとバンダナを持ってパチューカを訪れ、それらをチームに渡しました。その際、監督や選手、スタッフ、そしてカレロ選手の家族までもが百瀬さんを出迎えてくれ、チームパチューカのファミリーの様な暖かさを感じたといいます。

私のパチューカへの想いは本当に大きいし、彼らも私をいつでも暖かく迎えてくれます。ヨーロッパのビジネスライクな環境とは違い、メキシコのクラブでは、選手やスタッフ一人一人をファミリーの様に扱います。一度雇用したクラブスタッフを切ることは、めったにありません。人との繋がりが強く、大切にする人達です。

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コロンビア代表も務めたミゲル・カレロ。彼の誕生日4月14日は「国際ゴールキーパーの日」に制定されている。

現在は自身が会長を務めるコネクト株式会社でスポーツのマネジメントに関わっている百瀬さん。人と人との繋がりを大事にしていきたいという想いから、「コネクト」という会社名をつけています。人と違う道を選び、メキシコサッカーの文化を通して肌で学んだ人とのご縁の大切さ。「今まで自分が人に与えてもらったものを、今度は自分が返していきたい」と強く語っていました。


通訳、コーディネーターとしても活躍の百瀬さん。先日来日したネイマールと。


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