湘南ベルマーレ齊藤未月選手インタビュー 「プロになるために必要なことは?」自分に問い続けた齊藤未月選手、Jクラブのアカデミーからトップチームへステップアップ-前編-

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湘南ベルマーレ齊藤未月選手インタビュー 「プロになるために必要なことは?」自分に問い続けた齊藤未月選手、Jクラブのアカデミーからトップチームへステップアップ-前編-

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Jリーガーを目指す高校生や大学生が歩む道には、さまざまなルートがあります。その一つがJクラブのアカデミーに所属し、トップチームへステップアップを図る方法です。

現在、湘南ベルマーレに所属する齊藤未月選手は、高校2年生でトップチームの公式戦へ出場が可能になるチームへの二種登録が行われ、高校3年生でプロ契約に至りました。理想的な道を歩んできたといえます。しかし、人から見れば順風満帆な航路でも、そこには見えない努力があったはずです。いつ頃からプロを志し、どうしてこのようなルートを選んだのか、前編・後編の2回にわたり紐解きます。

試合に出られない理由は何?考え始めたのは中学生の頃

齊藤選手は、小学生から湘南ベルマーレのアカデミーで育った選手。曺貴裁(チョウキジェ)監督がトップチームで指揮を執り始めた2012年からは、カテゴリーを問わずアカデミーから一貫して同じスタイルのサッカーを行うこととなった中で育ったこともあり、「湘南らしさ」を体現すると言われる選手の一人です。

ジュニアに加入したのは小学校5年生の時でした。現在の湘南ベルマーレは、ジュニア年代の育成についてホームタウンのクラブを主とし、他クラブに所属する選手をより強化するための強化特待クラスが設けられ、登録クラブとしては存在していません。齊藤選手は、登録クラブとして存在した湘南ベルマーレジュニア最後の年代でした。

練習の内容はあまり覚えていませんが、小5の時は毎週決まった曜日にフットサルコートに行って、狭いピッチで練習していたことを覚えています。Jのクラブチームでしたが、チームの雰囲気はどちらかというとちょっと部活っぽい。その中で、チームの輪を大切にし、チームで頑張るというような姿勢が身についたと思います。ただ、やっぱりみんな選抜されてきていたのでうまかったです。県内でも上位を目指せるチームだったと思います。

覚えているのは、人間としての成長を促す基本の指導。楽しくサッカーに取り組める環境が用意され、自身も充実していた記憶が残るといいます。しかし、ジュニア最後の代ということもあり、その活動には少しせつない思い出も残っていました。

小5の時に8人制の大会があり、神奈川県で2位になりました。そのまま関東大会に出られるはずだったのですが、関東大会は前後半で選手を入れ替えなきゃいけなかったようで、他のチームは下級生がいるので人数を合わせられたけど、僕たちには下級生がいなかったので人数が足りなくて出場できませんでした。結局3位だった川崎フロンターレが出て、関東大会を優勝して、全国でも優勝していたなという思い出があります。


自分たちが出ていたら優勝できたと思うかという問いには、「優勝はできなかったと思う」と笑った齊藤選手。

ただ、出たかった。チームとして全国大会優勝や、そういう経験をしたかったなというのはあります。

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小学校卒業後は、ジュニアユースへ昇格。このタイミングでもセレクションがある為、同じジュニアのチームから全員が昇格できたわけではありませんでした。

小学生の頃は、あまりチームメイトの個性を感じることはなかったのですが、中学生になると、実力差が出たり、個性が出てきたと思います。中2になると、同じチームでも1つ上の学年の試合に出る選手も出始め、その内の何人かは神奈川県選抜に選出されることもありました。みんな言葉に出しては言わないけど、選手間の競争心やライバル関係はあったと思います。

齊藤選手自身は、まだプロになることを意識することはありませんでしたが、それでも他の選手とどんな差があるのかを意識し始めたのがジュニアユース年代だったといいます。このときの目標は、絶対にユースに上がることでした。

あいつが1個上の試合に出ているのに、なんで俺は上がってないのか? あいつに負けたくない。じゃあ頑張らないといけない。上がれない理由があるし、試合に出られない理由もある。自分よりうまい選手との差を感じて、その理由を考え始めるようになった年代だったと思います。

齊藤選手が中学2年生の時、トップチームに曺監督が就任します。
ここから湘南ベルマーレでは、トップチームからアカデミーまで一貫して同じスタイルのサッカーを行うことになりました。中学3年生となった年には、前年トップチームでコーチをしていた浮嶋敏氏がジュニアユースの監督に就任しました。指導のスタイルも大きく変わっていったのです。

中2までは走り込みも多かったのですが、敏さんが監督になった中3からは技術面やサッカーの戦術面など教えてくれました。

トップチームは、J1とJ2を行き来していましたが、アグレッシブに縦を意識した攻撃と、90分間衰えることのない走力を武器にしたサッカーを目指し、「湘南スタイル」と呼ばれるJリーグでもこれまでにないスタイルに注目が集まりました。トップチームが目指すサッカーがより高い志しを持ったスタイルであることや、リーグ内の評価が変わり始めたことをもっとも敏感に感じるのは、アカデミーの選手たちです。

試合を観に行く回数も増えましたし、観ていてもおもしろかった。中3の途中からプロでやりたいな、湘南でプロになりたいなという感覚が芽生えてきました。やっぱりおもしろいサッカーをしていたし、注目も浴びていましたし。

漠然とした夢だった「プロサッカー選手」。トップチームの躍動する姿が、憧れをリアルな目標へと変えたのです。

実力のあるライバルの存在こそ成長のモチベーション

齊藤選手がサッカーを始めたのは、サッカー経験者であるお父さんからの影響があってのことでした。小学校に上がる前には近くのクラブチームに、齊藤選手は選手として、お父さんはコーチとして一緒に通い始めます。このクラブチームが、齊藤選手のサッカーの原点となった藤沢FCでした。

小学4年生までこのクラブに所属し、攻撃的なポジションが得意だったお父さんの教えもあり、点を取るというサッカーの楽しさの基本を学んだといいます。そしてもう一つ、藤沢FCでは、その後のサッカー人生を抜きつ抜かれつ刺激し合う同期の石原広教選手に出会いました。

一番の思い出は、チームとして神奈川県で4位という成績を出せたことです。準決勝まで行けば日産スタジアムで試合ができる大会でした。やっぱり小学生のときはスタジアムで試合ができるというのは憧れがでした。勝ち進むにつれて、スタジアムで試合をすることが目標になっていきました。

2002年に開催された日韓共催のW杯の決勝の舞台となったスタジアムでサッカーができることは齊藤選手にとって、モチベーションを高めるのにぴったりのごほうびでした。

また、サッカーが好きだった齊藤選手は、所属クラブ以外に横浜F・マリノスのスペシャルクラスにも通い、サッカーの上達を図っていました。それは石原選手も同様で、石原選手はステップアップを図るために、4年生でベルマーレのジュニアのセレクションを受け、合格します。

マリノスは、みんな上手くて体も大きかった印象ですね。大きなグラウンドがあったのも魅力でした。でも、ちょっと雰囲気が自分とは違うなという感じがありました。広教がベルマーレに行ったこともあり、自分も受けてみたら合格できました。

マリノスのスペシャルクラスで会った選手たちもまた、現在も意識するライバルとして齊藤選手の中で存在をしているといいます。

マリノスもアカデミー内の昇格は難しいと思うけれど、あの頃一緒にプレーしていた選手がジュニアユースやユースにどんどん上がっていきました。あの頃の僕は下手くそだったけれど、いつか追い越してやるという気持ちを持ってやってきました。対戦した時には競争心が自分の中に勝手に湧いてきましたし(笑)。中学の時も県の選抜で同じチームでしたが、そのときもマリノスの選手の方が段違いでレベルが上だと思いました。でもいつか追いついて、追い越してやるという気持ちでやってきました。

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自分が所属するクラブ以外のチームにいるライバルは、クラブのカラーがはっきり出ているという点でタイプが全く異なり、刺激になりました。

高校の時に国体に出場したのですが、そのときもマリノスの選手が多く選ばれていました。国体なので同じチームになりますが、強かったですね、あのチームは。神奈川県のチームとして優勝したのですが、それが自分としては良い経験になりました。

競争心に火をつける手強いライバルも味方になれば心強いもの。国体出場のために選抜された齊藤選手は、こうしたライバルたちと一緒にチームを組みます。斎藤選手はライバル達がどんなプレーが得意かを理解していましたし、自分の特長とは異なることもわかっていました。その両方が噛み合えば勝てるはず。そんな思いで国体に臨み、目標通り全国1位となります。
実はこの大会が、齊藤選手の転機となっていたのです。

ー後編へー

Jリーグ サッカー ベルマーレ 齊藤未月