女子サッカーを文化にするために カナダW杯決勝の衝撃から学べること 第2回 東京五輪は日本女子サッカーの「夜明け」となるか
WATCH女子サッカーを文化にするために カナダW杯決勝の衝撃から学べること 第2回 東京五輪は日本女子サッカーの「夜明け」となるか
「1999年は新時代の夜明けだ。アメリカのサッカーファミリーは他に類を見ない旅に乗り出している」
元全米サッカー協会事務局長のハンク・ステインブレシェルは1999年に発行された『Women’s Soccer』の序文に寄せ、そう述べています。
1972年に制定された『Title IX』により、大学などの環境が整えられ、競技人口が飛躍的に拡大した女子サッカー。さらに91年W杯で初の世界一に輝くとその勢いは増し、1999年に行われた自国開催のW杯で、熱狂はピークに達します。
今回は1991年からの1999年の、アメリカ女子サッカーが「夜明け」を迎えるまでの10年間から、日本の女子サッカーが文化になるためのヒントを探ります。
2015W杯優勝につながった、99年の大いなる遺産
「HAMM」
背中にそう書かれたユニフォームを着たティーンエイジャーを、BCプレイスの観客席で見かけました。
「HAMM」とは、アメリカ女子サッカー史上最高の選手と言われるミア・ハム(Mia HAMM)のこと。1987年に史上最年少の15歳でアメリカ女子代表に選出され、17年間にわたり活躍。アトランタ、アテネ五輪2度のオリンピックと、1991年と1999年の2度のW杯でアメリカを世界チャンピオンへと導き、2001、2002年のFIFA最優秀選手賞に輝いたアメリカ女子サッカーのレジェンドです。
日本で言えば、澤穂希選手のような、女子サッカーを象徴する存在。多くのファンがいることは当然ですが、引退して10年以上経つ選手のユニフォームを、しかも10代の少女が着ていることには驚かされます。
調べてみたところ、ミア・ハムだけでなく、アメリカ女子代表最多出場記録をもつクリスティン・リリー、FIFAの「20世紀最高の女性選手」に選出されたミシェル・エイカーズ、そして1999年のW杯でPKを決め、ユニフォームを脱ぎ捨てガッツポーズしたことで一躍有名になったブランディー・チャステインなど、レジェンド選手のユニフォームが現役選手のものと並んで売られています。
彼女らはいずれも、99年アメリカW杯の優勝メンバー。全米中にセンセーションを巻き起こしたこの大会の影響力の大きさを感じさせます。
1999年6月19日、ニューヨーク・ジャイアンツスタジアムで開幕したW杯で、アメリカ代表はグループステージを3-0、7-1、3-0の3連勝で突破。準々決勝ではドイツに3-2、準決勝は2-0でブラジルに勝利し、決勝に駒を進めます。
決勝は7月10日ロサンゼルスのローズボウルで行われ、アトランタ五輪決勝と同じアメリカと中国が対戦。90分で決着つかず延長120分を戦うも、0-0のままスコアは動かず、PK戦へ突入します。5人全員が成功したアメリカに対し、中国3人目のキックをGK のブリアナ・スカリーがセーブ。2011年ドイツW杯決勝を彷彿とさせる劇的な勝利に、全米の興奮は最高潮に達します。
決勝では9万150人の観客がローズボウルを埋め尽くし、女性スポーツで最も成功したイベントとなった1999年アメリカ女子W杯。総入場者数は119万4,221人(32試合/1試合平均 37,319人)、4,000万人以上の人がテレビで観戦したと言われています。今回のカナダW杯の総入場者数は史上最多の135万3,506人記録し、1999年大会を上回りました。しかし今大会から試合数が32から52に増えたため、1試合平均で考えると、1999年の記録はなお燦然と輝いています。
スタジアムやテレビでアメリカ代表の戦いに熱狂した人の中には、現在の代表選手も多く含まれていました。カナダW杯の決勝でハットトリックを達成したカリー・ロイドは「背筋まで震えた」(※1)と振り返ります。
「ミア・ハムは私のアイドル」と言う当時大学生だったアビー・ワンバックは、「今も彼らの金メダルを鮮明に思い出すことができます。私は五輪のメダルを持っていますが、何よりW杯の金メダルを勝ち取りたい」とUSA TodayのインタビューでW杯にかける思いを語っています。
アメリカ人の父とカナダ人の母との間に生まれたシドニー・ルルーは、カナダの地でアメリカ代表の勇姿を見て強い憧れを抱きます。一度は2004年のU-19女子W杯でカナダ代表としてプレーしたルルーですが、大学の奨学金を得られ、国際的な成功ができる、そして何より憧れのミア・ハムがプレーしていたアメリカで代表選手になることを決意します。
1999W杯の大会組織委員会会長を務めたマーラ・メッシンングは「この大会のミッションは、女性スポーツの画期的な舞台を作ることと、次世代の女子アスリートをインスパイアすること」(※2)だと大会前のプレスカンファレンスで話しています。
この大会がその両方で大いなる成功をおさめたことは、この時「インスパイアされた選手たち」がカナダW杯での3度目のW杯制覇の原動力となったことが証明しています。アメリカ女子サッカーの成功は、今もなお、1999年W杯の遺産の上に成り立っているのです。
W杯を成功に導いた、ミア・ハムというロールモデル
興行的な成功と若い世代を「鼓舞」すること、この2つのミッションを達成するために、メッシングは 「サッカー少女とその家族」をターゲットにプロモーションを展開します。彼女が最初に行ったのは「アメリカ代表選手は偉大なアスリートであり、美しいロールモデルである」(※2 )と発信し、サッカー少女とサッカーママの憧れの気持ちを醸成することでした。彼女は、代表選手が、世界的なアスリートとしてだけでなく、お手本にすべき魅力的な女性であることを示すため、CMやファッション誌に積極的に登場させます。
その中心的な役割を担ったのが、エースのミア・ハムでした。マイケル・ジョーダンとの共演で話題になった『ゲータレード』のCMでミア・ハムは、「男性と対等に戦うことができる」強く美しい女性のアイコンとして、サッカー少女だけでなく、全米の少女とその母親たちの憧れとなっていきます。
アメリカの市場調査会社ハリス・インタラクティブの『女性スポーツスター人気ランキング』によると、調査が開始された2004年から10年以上にわたり、ミア・ハムはトップ5から一度も外れたことがありません。2014年の調査でも、セリーナ・ウィリアムズ、ダニカ・パトリック(レーサー)、ビーナス・ウィリアムズ、マリア・シャラポアの現役トップアスリートに次ぐ5位にランクイン。8位の現アメリカ代表アレックス・モーガンを押さえ、今なお存在感を放っています。
ミア・ハムがこれほど支持されるのは、サッカー選手としての華々しいキャリアからだけではありません。プロ選手がいなかった時代に10社近い企業のCMに出演し、1億円以上を稼いでいたこと、骨髄研究と女性スポーツ振興のための「ミア・ハム財団」を設立するなど社会貢献活動を行っていることや、プロ野球選手と結婚し、3人の子どもの母親であることなど、その生き方すべてが全米の少女たちのお手本となっているのです。
ミア・ハムの影響もあり、アメリカでは女子サッカー選手の社会的地位が高く、ベネッセ総合教育研究所が行った「学習基本調査・国際6都市調査 女子小学生のなりたい職業ランキング」でもサッカー選手は14位に入っています。(日本はランク外)
こうした「ミア・ハムになりたい」「ミア・ハムにしたい」という憧れは、アメリカ女子サッカー文化の礎となり、次々と新たなタレントを生む源泉となっています。
2020年は日本女子サッカーの「夜明け」となるか
1999年W杯を調べるにつれ、1991年からアメリカ女子サッカーが歩んだ10年は、2011年W杯初優勝後の日本の状況に少し似ているように感じます。
アメリカは、91年のW杯で初優勝。マイナースポーツだった女子サッカーは一躍注目を集め、競技人口が爆発的に増加します。ミア・ハムを筆頭に、多くの代表選手がCM出演やスポンサー契約を得てスターとなっていきます。その5年後96年の五輪で優勝を経て、8年後の自国開催のW杯で集大成の時を迎えます。
同じように日本も2011年にW杯で初優勝し、女子サッカーは大きな注目を集め、サッカーを始める女の子が増加しました。CMやTVや雑誌に多くの代表選手が出演し、リーグの観客数やクラブチームのスポンサーが増加するなど、少しずつではありますが競技環境も改善されています。4年後のカナダW杯では準優勝、来年リオ五輪でも金メダル候補に挙げられています。そして何より、1999年のW杯と同じようなタイミングで、自国開催の五輪がひかえています。
前回お話したとおり、『Title IX』により大学等の奨学金制度を背景に爆発的な競技人口の増加を遂げた当時のアメリカと、未だに「中学問題」を抱える日本の状況を比較すれば、日本が2020年に99年のアメリカのような輝かしい「夜明け」を迎えられるかは疑問です。しかし、アメリカという良い前例から学び、東京五輪に向け一つずつ課題を解決していけば、決して不可能なことでもありません。
アメリカ代表が見せつけた、衝撃的で美しい光景
そのヒントの一つがバンクーバーにありました。悔しさいっぱいで表彰式を見届けた後、さらに追いうちをかけるように飛び込んできた衝撃の光景。アメリカの選手が子どもたちと一緒に写真を撮ったり、パートナーと抱き合って喜びを分かち合ったりする姿です。カナダで見た中で最も敗北を感じ、最も美しいと感じたこの景色は、なでしこジャパンとアメリカの最も大きな違いでもあります。
カナダW杯のアメリカ代表には、9人の既婚選手と3人のママ選手がいました。アメリカでは選手の子どもが同行できるよう代表チームにベビーシッターを帯同させています。それだけでなく、出産前からトレーニングをサポートし、選手の復帰をサポートしています。しかもこのようなサポートが16年前から続けられているのです。
アメリカで出産を経験した後国際舞台に復帰した最初の選手は、アメリカ女子サッカー「Fab 5」の一角ジョイ・フォーセットでした。フォーセットは1994年に出産した長女のケイティーを伴い出場した翌年のスエーデンW杯で、全6試合にフル出場。引退までに2度のW杯優勝、2つの五輪金メダルと3人の子どもを持ちました。余談ですが、この女子サッカーチームのベビーシッタープログラムは、アトランタ五輪でソフトボールなど他競技にも取り入れられています。
先日澤穂希選手の結婚が発表され、日本中が驚きとともに祝福ムードに包まれました。カナダW杯メンバーの既婚選手は、大儀見優季に続いて2人目。子どものいる選手は現在1人もいません。
スポーツの世界でだけでなく、今の日本は結婚、出産した女性が活躍できる環境が十分に整っているとは言いがたい状況です。社会的背景の違いもあり、一朝一夕に追いつくことは難しいかもしれませんが、ミア・ハムのようにミセス澤が日本女性のロールモデルとなっていくことを期待したいと思います。
そして10年後「好きなスポーツ選手ランキング」に澤穂希の名前があり、なでしこジャパンの試合を「SAWA」のユニフォームを着た少女たちが観戦する。そんな光景を見ることができたなら、日本の女子サッカーが文化になったと言えるかもしれません。そのためにも、東京五輪までの5年間は日本女子サッカーにとって正念場となるでしょう。
※1: USA TODAY Sports「Legacy of 1999 Women’s World Cup champions lives in this year’s U.S. squad」(2015)
※2: Los Angeles Times「Marla Messing’s big thinking made Women’s World Cup huge」(2009)