ファイターズが仕掛けるファームの楽しみ方 鎌スタ20周年 ファイターズが仕掛けるファームの楽しみ方②

鎌スタ20周年 ファイターズが仕掛けるファームの楽しみ方② WATCH

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開設20周年を迎えた、北海道日本ハムファイターズの二軍施設・ファイターズタウン鎌ケ谷(鎌ケ谷スタジアム、通称:鎌スタ)。
2004年に一軍が北海道に移転して以降、首都圏のファイターズファンの受け皿である一方、自主興行化を推進することで新たなファンの開拓を図ってきました。しかし本来の役割はやはり、若手成長株を次々と一軍へと送り込む「育成工場」に変わりはありません。「鎌スタ20周年」の2回目は鎌スタ完成までの歴史を振り返りながら、その果たしている役割を考えてみたいと思います。

完成当時は日本球界だけでなく、米国にも誇れる施設

1997年3月にオープンした鎌スタ。千葉県鎌ケ谷市中沢にあるファイターズの二軍施設は、約56,000平方㍍の土地に内野席2286人のメーンスタジアム、選手寮である「勇翔寮」と隣接する屋内練習場があります。総工費は当時の金額で130億円。最近でこそ、各球団ともファーム施設の充実を図り、最新の施設が続々と誕生していますが、ここはその先駆けのひとつ。1980年代前半まで多摩川河川敷の東京側に練習場があった読売巨人軍が建設した読売ジャイアンツ球場(川崎市)にこそ遅れをとったものの、当時としては画期的な施設でした。

昨今、この地を訪れる野球関係者が口々に「なぜ、ファイターズが強くなったか分かる」と話す施設は、育成に力を注いできた球団の先見性のたまもの。それは1973年の球団買収時から続いているといっても過言ではないでしょう。長年、幹部として球団の運営にあたってきた小嶋武士さんは、取材に応じてくれた現在でも「ファイターズタウンは完成当時、日本球界だけではなく、米国にも誇れる施設だった」と胸を張りました。

小嶋さんといえば、一軍の北海道移転はもとより、春季キャンプの沖縄進出などファイターズにとって、ターニングポイントとなる決断をした人物。もちろん、鎌スタ建設にも大きな役割を果たしました。ファーム施設を充実するという構想は一軍がパ・リーグで優勝した1981年ごろから始まった、といいます。

当時の二軍、一軍を含めた練習施設は多摩川の河川敷の川崎市側にありました。ちょうど巨人の練習場の対岸。とはいっても環境は愚劣。現在、二軍で指導するある首脳によれば、「グラウンドは小石まじりだし、一軍の練習があるときは二軍の練習時間をずらさなければならなかった」と苦笑い。小嶋さんも「(多摩川グラウンドは)フェンスも固定できず、水道もやっと1本引けるだけで、トイレも仮設。電気はディーゼル発電で起こしていました」。
なにより、センター後方の東急東横線が鉄橋を渡ると、投球が見えなくってタイムがかかるというような逸話が残る場所。それでも1979年、近くにあった合宿所を新築、地上3階、地下1階の建物には屋内練習場が併設され、最新のウエートトレーニング機器を導入したことでチーム力は急上昇。二軍、一軍と立て続けにリーグ優勝を果たしたことで、投資すればするだけ、結果につながる手ごたえを感じ始めたのです。

念願の施設完成で即、ファームで19年ぶりの優勝

ただ、合宿所の新築などにかかったのは5億円ほど。球場を含めた施設建設には多額の資金とまとまった土地が必要になります。それだけの投資価値があるのか? そもそも首都圏に手ごろな土地があるのか? 思案する時間が流れるなか、ようやく手を挙げてくれた自治体がありました。それこそが鎌ケ谷市。

1991年に市制20周年を迎える東京のベッドタウンは大規模な開発事業をいくつか進めようとしていました。小嶋さんによれば、施設の建設計画は市の都市計画構想の中で進められ、水面下では「施設の土地は市が買収して周辺の施設は市が整備して球団が借り受ける。球団は球場本体のみを建設すること」で話が進んでいたんだそう。
しかし、表面化した後、最終的には市議会の承認が得られず、計画は白紙の瀬戸際。すでに用地買収なども始まっていたことから球団側が全施設を整備することで計画は続行、1997年にようやく完成をみたのです。もし当初の計画通りにファイターズが球場のみを建設していたら「(費用から見ても)1万人のスタジアムができていた」と小嶋さん。さらに立派な施設が誕生していたかもしれません。

さて、念願の施設が完成すると、二軍はすぐに結果を出します。この年、17年ぶりにイースタン・リーグを制してジュニア日本選手権(当時、現ファーム日本選手権)にも初優勝して日本一。この流れはちょうど、川崎の旧合宿所を新築した時と同じです。ということは、今回もここで育成した選手が昇格を果たして一軍での優勝も夢ではない。でも毎回、そんなにうまくはいきません。
あと一歩で結果が出ないシーズンが続いただけでなく、運営面でも東京で行き詰まりを感じ始め、最終的に北海道移転を決断するに至ったのです。この時、鎌ケ谷の全施設を自前で整備したことが大きな意味を持ちます。以降、関東に残った二軍が独自展開しやすくなったのです。そして、北海道との約800㌔の距離が斬新で弾力のある、ベンチャー的なファーム運営を可能にした、といっていいでしょう。

鎌スタは『ボールパーク化構想』の実験場

どういうことか。それは昨今、何かと話題になっている「ボールパーク化構想」を先駆けて実践している、ということです。鎌スタは紆余曲折があったものの、最終的は自前の施設として完成をみました。現在でも日本ハム本社が所有して、ファイターズ球団が借り受ける形での運営になっています。これは「自前の球場で独自のサービスを提供し、最終的に利益を得る」という球団、球場経営の理想形そのもの。確かに一軍と二軍では規模の違いがあって一概に比較することはできませんが、規模が小さい分、より実験的で「攻め」の運営ができるのではないでしょうか。
実際、自前の球場の改修は自由自在。現に球場正面玄関にラウンジを新設する際、玄関横にあった事務所を敷地内に別棟を新築して移設することもできました。それ以外にも正面駐車場も球団所有で、イベントの開催は日常的に可能。場内とも連動して野球ファン以外の人たちを呼び込むことができます。この辺りがファイターズと他球団の違いになって表れているのではないでしょうか。

その辺りを球団代表の島田利正さんに聞いてみると、具体的なコメントは避けたものの、「スタジアムの理想像というのは東京でやっているころからある」と答えてくれました。鎌ケ谷スタジアムの現在の姿は北海道の道しるべ。そんな思いを強くした取材でした。


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