ファット・アダプテーションその2-競技力を落とさずに糖質制限を行う方法
DOファット・アダプテーションその2-競技力を落とさずに糖質制限を行う方法
以前の記事「糖質ではなく脂肪をエネルギー源として使うファット・アダプテーションとは」の続編です。前編ではファット・アダプテーションの原理と個人的な体験を紹介しました。
*前回記事>>「糖質ではなく脂肪をエネルギー源として使うファット・アダプテーションとは」
そこでも触れましたように、ファット・アダプテーションは効果が出るまでには長い時間がかかり、またその効果もはっきりとした数字で把握しにくいことが難点です。
いつかは身体が適応し、効果が出ると信じていても、それが1年後になるか2年後になるかわからないのでは、目先のレースで結果を出したいアスリートにとっては、なかなか取り入れにくい手法でもあります。
そのため、スポーツの現場では、競技者がファット・アダプテーションのために糖質制限食を取り入れやすいように、様々な方法が考えられています。
ファット・アダプテーションの準備期間は年単位
ある研究*¹ では、耐久系スポーツのエリート・アスリートたちに4週間の糖質制限をしても、筋肉のグリコーゲン量など体内の適応とタイムトライアルのパフォーマンスに目立った変化は起こりませんでした。ファット・アダプテーションは数週間や数か月ではなく、年単位で取り組まないと効果が出ないもののようです。
食生活に糖質制限を取り入れても、ファット・アダプテーションが進んでいない段階では、体はまだ脂肪を有効に活用できず、糖質を優先的にエネルギー源として使います。
体がその段階にあるときに、糖質を補給せずに長距離レースを走ると、当然ながらかえって普段よりも疲れやすくなり、パフォーマンスが落ちてしまいます。
さらに言えば、脂肪をエネルギー源として有効活用できるようになっても、それは低強度運動を長時間行うには適していますが、強度の高い運動、例えば速く走るためには、やはり糖質が重要なエネルギー源として使われることも忘れてはなりません。
ウルトラマラソンのような超長距離レースではスピードはさほど問題になりませんが、それ以下の距離(5Kからフルマラソンまで)のレースの場合、競技者ならペースを上げる局面が必ずあり、そのためのスピードとパワーは落とすわけには行きません。
従って、インターバル走やスプリントなど、強度の高い練習も欠くことができません。そのためには糖質は依然として必要なエネルギー源なのです。
“Train low, Race high”
ファット・アダプテーションによる持久力向上を図りつつ、レース本番では糖質もプラスアルファのエネルギー源として利用し、またスピードにも対応できるようにするために考え出されたのが、普段のトレーニング期間はずっと糖質を制限した食事をして、本番レース当日のみ糖質を多く含んだ食事をする”Train low, Race high”と呼ばれる方法です。
この方法なら、ファット・アダプテーションがまだ十分に進んでいない段階でも、今までのように糖質をエネルギー源として利用することができます。いわば安全策です。
さらには、かつて耐久系スポーツの栄養戦略として主流だった「カーボ・ローディング」に近い考え方だとも言えるでしょう。カーボ・ローディングには古典的な方法と改良型の方法があります。
古典的なカーボ・ローディングはレースの1週間前に激しい運動をして、いったん筋肉内のグリコーゲンを枯渇させます。そして次の3日間は炭水化物を減らし、その次の3日間は逆に炭水化物を多くした食事を摂ります。改良型のカーボ・ローディングでは、レースの1週間前から徐々に運動量を減らし、3日前から炭水化物の摂取を多くしていきます。
どちらの方法も、レース当日に向けて、運動のエネルギー源となる筋肉内のグリコーゲン量を一時的に増やすことが目的です。カーボ・ローディングは、普段と異なる食事をする期間がレース前の1週間程度と長く、上手くいけば効果を発揮するものの、かえって体調を崩してしまう例や、体重を増やし過ぎてしまう例が多くあります。その点、”Train low, Race high”では普段と異なった食事をするのは1日だけなので、そうした危険性はぐっと低くなります。
この方法はファット・アダプテーションを進めながら、レース本番のパフォーマンスを維持するには適していますが、依然としてスピードを高めるための日々のトレーニングは質が低くなってしまうことは避けられません。
そのため、どちらかと言えば市民ランナー向けで、競技志向が高いアスリートには向いていないようです。ある研究*²では、“Train low, Race high”を行った競技サイクリストたちが100キロ(長距離)のタイムトライアルの直後に1キロ(短距離)のタイムトライアルを測定したところ、1キロのパフォーマンスが極端に悪い結果になったと報告しています。
参考文献
*1.No Superior Adaptations to Carbohydrate Periodization in Elite Endurance Athletes.
Gejl, K.D. et. al., 2017
https://journals.lww.com/acsm-msse/FullText/2017/12000/No_Superior_Adaptations_to_Carbohydrate.14.aspx
*2.Fat adaptation followed by carbohydrate loading compromises high-intensity sprint performance.
Havemann L. et. al., 2006
https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/16141377/
“Sleep Low”
長期間に渡って糖質を完全に排除するのではなく、1日単位のサイクルの中でトレーニングの内容とタイミングに応じて糖質の摂取量をコントロールする“Sleep Low”と呼ばれる方法が最近になって注目を浴びるようになりました。以下がその代表的なサイクルです。
•夜は、糖質ゼロの食事をしてから就寝する。
•翌朝は、朝食を食べる前に(体内に糖質が少ない状態で)、長時間の有酸素運動(LSDなど)を行う。
•その後の朝食や昼食ではある程度の糖質を摂取し(体重1kgあたり2~3g)、午後に高強度の運動(インターバル走など)を行う。
このパターンを定期的に継続して繰り返すことによって、スピードやパワーをつけるためのトレーニング強度を妥協することなく、それでいてファット・アダプテーションの効果も期待することができるというものです。
この方法をテストしたある研究*³によると、トライアスリートたちが週に4日の“Sleep Low”を3週間実行したところ、10キロ走のタイムが平均して75秒(約3パーセント)速くなったということです。さらに体脂肪率が減少するなどの身体的効果も認められました。
早朝と午後に分けて、1日に2回のトレーニングをすることは、以前から陸上競技者の間で広く行われてきました。“Sleep Low”の基本的な考え方はそれと大きくはかけ離れてはいないと思います。
この方法の特徴は、持久力を向上させる目的のトレーニングは糖質が体内に少ない状態で行い、スピードやパワーを向上させる目的のトレーニングではある程度の糖質を体内に入れて行うところにあります。
参考文献
*3.Enhanced Endurance Performance by Periodization of Carbohydrate Intake: “Sleep Low” Strategy.
Marquet L.A. et. al., 2016
https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/26741119/
断続的断食との組み合わせ
“Sleep Low” のもう1つの特徴は夕食を食べてから次の朝の練習後までの長い時間(12~16時間)に栄養を補給しないことです。これは最近注目を浴びているダイエット方法である「断続的断食」(Intermittent Fasting)に似通った考え方です。
断続的断食とはつまり、食べ物をまったく摂取しない時間帯を定期的に、且つ連続して設けることです。さまざまなパターンがありますが、その代表的なものが16:8ダイエットです。
1日のうち、食べ物を摂取しない時間帯を16時間、摂取する時間帯を8時間に分けることですので、 “Sleep Low” のサイクルとほぼ一致します。「腹が減っては戦はできぬ」とことわざにある通り、人は空腹状態ではパワーを発揮することは難しくなりますが、その状態で比較的強度が低い運動をすると、体は脂肪をエネルギーに活用するように働くようです。
スピードより長時間の持久力を求める耐久系アスリートの中では、「糖質制限」+「断続的断食」+「空腹時の長時間トレーニング」の組み合わせがもっとも高いファット・アダプテーションの効果を生み出す方法だと考える人が増えてきました。
米国のウルトラランナーであるマイケル・マクナイトさんは今年の5月に100マイル(160キロ)を無補給で完走するという過酷な実験を行いました*⁴。18時間40分で完走するまでの間、マクナイトさんは水のみを摂取して、カロリーがある食べ物はおろか、スポーツドリンクすら口にしなかったそうです。
そのマクナイトさんの普段の食生活は「ケトジェニック・ダイエット」と呼ばれるもので、脂肪を多く摂取し、糖質はほとんどゼロに近づけます。それだけではなく、マクナイトさんが食事を摂るのは午後1時から午後7時までの6時間のみと定めて、1日のうち18時間は栄養を摂取しないのだそうです。
参考文献
*4.Michael McKnight Runs 100-miles on Zero Calories.
https://kogalla.com/blogs/news/michael-mcknight-runs-100-miles-on-zero-calories
脚光を浴びる日本の「マラソンモンク」
マクナイトさんらのような海外のウルトラランナーたちからも高い関心と尊敬の対象になっているのが、比叡山延暦寺の千日回峰行です。
千日回峰行とは1000日に渡り、山中の険しい道を1日30~80㎞走破し、しかも期間中の食事は1日2回の粗食のみ、という凄まじい修行です。さらには700日後には9日間の断食・断水・断眠まで行うそうです。つまりは、空腹状態での長時間運動を繰り返すというファット・アダプテーションの理論を究極の形で実行しているとも言えるでしょう。
どう見ても、今までのスポーツ栄養学の常識からすると、死んでしまわない方がおかしいような気がするのですが、比叡山には実際にこの荒行を行ってきた人々の長い歴史があります。
1100年間で達成者は僅かに51人(2回達成した人が3人)しかいないということですが、その人たちも紛れもなく人間であったことは間違いありません。
もちろん、誰にもできることではありませんが、ファット・アダプテーションを考える上で、この事実は大いに参考になるのではないでしょうか。「千日」という年月がキーだと私は考えます。