障がい者スポーツのパイオニア プロ車いすテニス選手、齋田悟司選手
WATCH障がい者スポーツのパイオニア プロ車いすテニス選手、齋田悟司選手
1996年のアトランタパラリンピックから、6大会連続でパラリンピックに車いすテニス日本代表として出場している齋田悟司選手。昨年のリオパラリンピックでは、国枝慎吾選手とのダブルスで8年ぶりに銅メダルを獲得しています。障がい者スポーツのプロ選手としての今までのキャリアや車いすテニスの魅力、2020年に向けた意気込みを聞きました。
top写真提供:SIGMAXYZ
車いすバスケ少年がテニスに転身
齋田選手が足に違和感を覚え、病院で骨肉腫と告知されたのは、12歳の頃でした。野球に励むスポーツ少年だった齋田選手は、片足を切断という辛い決断をします。
『足を切らないと命がない』とお医者さんに伝えられました。それまで病気とは縁のない生活を送っていたので、これからどのように生きていけば良いのか、不安でいっぱいだったのを覚えています。
周りの友人は走り回る中、車椅子生活で自由に動けず、気持ちも落ち込んでしまいがちだった齋田選手。そんな齋田選手を励まそうと両親が見つけてくれたのが、車いすスポーツでした。
最初に齋田選手が出会ったのは、車いすバスケです。当時はルール上、片足切断の選手は公式の試合に出られません。けれど体を動かすことが楽しかった齋田選手は、車いすバスケにのめり込んでいきました。そんなある日、たまたま車いすテニスの講習会にバスケチームメンバーと参加したところ、メンバーは車いすテニスに大はまり。車いすバスケのチームが車いすテニスに変更され、齋田選手も車いすテニスを始めることになりました。
テニスを始めた最初のうちは、太陽の下で汗をかいたり、仲間と運動することが楽しみで続けていました。けれど負けず嫌いなので、大会に出始めてから、強い選手とどこが違うのか、何が自分に足りないのか、と競技面も徐々に追求するようになりました。
大学生になった齋田選手は、1993年の国別対抗戦で初めて国際試合に出場します。日本代表として日の丸を背負う重みと、海外の車いすテニスの迫力に圧倒されたことで、齋田選手は世界で戦うアスリートへと意識が変わっていきました。
海外のトップ選手達のパフォーマンスを見て、チェアワークやスピード感など、レベルの高さに驚きました。当時は自分と彼らの実力差はかなりありましたが、自分もこの人達と対等に戦いたい、そしてパラリンピックに出場したい、という思いが芽生えました。
悩み抜いた末選んだプロへの道
大学卒業後は公務員として働きながら、競技を続けていました。職場も齋田選手がテニスと仕事を両立するため、協力をしてくれたそうです。
しかし、より多く練習に時間を割き、競技力を向上させたいと考えた齋田選手は、公務員を辞め、練習に専念ができる車椅子メーカーへの転職を決意します。
当時の日本では障がい者スポーツでプロとして活動する選手がいなかったため、車いすテニス中心の生活については、周りから反対もされ、本当に悩みました。そこで今も練習しているテニスクラブの理事長に相談したところ、『生計は車椅子メーカーがサポートしてくれるし、練習場所は私達が提供する。年齢的に若く、海外選手にも劣らず、体格的にも恵まれているのはお前しかいない。』と背中を押され、決意しました。
この後押しにより、齋田選手は4年務めた公務員を辞めて車椅子メーカーに転職し、プロの障がい者スポーツ選手としての一歩を踏み出しました。
その後、レベルの高い選手達に追いつきたい、という想いで練習を積み重ね、昨年のリオまで6大会連続でパラリンピックに出場という記録を残しています。
パラリンピックに6回出ていると大ベテランと言われるけれど、どの大会も1つ1つ違うし、毎回緊張もします。その中で、2004年のアテネは、車いすテニスにおいて日本人初の金メダルを獲得して自信にもなったし、良い思い出として残っています。
写真提供:SIGMAXYZ
試合中を想定した練習が強いメンタルを生む
齋田選手が試合で勝つために意識していることは、目の前の1ポイントを着実にとり、積み重ねていくこと。前後のゲームやセットのことを考えず、いかに目の前の1球に集中するかが重要と齋田選手は語ります。
積み重ねたポイントがゲームやセットを落とすと無駄になってしまうテニス。強靭なメンタルが必要と言われますが、齋田選手も日々の練習の中で、試合を意識したメンタルトレーニングをしていると言います。
練習の時から前もって、試合でイライラしている状況や気落ちしている状況などを想定して、自分を奮い立たせるキーワードを用意しておきます。そして試合中、うまくいかない時に、自分は怒っているのか、落ち込んでいるのか、どの様な状況かを明確にし、状況に応じて準備しておいたキーワードを自分に言い聞かせています。良い時もあれば悪い時もあるなかで、常に良い精神状態に自分を戻すことが出来るかという点を重要視しています。
一方で、ダブルスを組む際は、ペアの選手と2人の実力を相乗効果で出せる様に意識しているそうです。
ペアの選手がどのようにプレーしたいか、相手がのびのび出来るように、試合前や試合中のコミュニケーションを心がけています。2004年のアテネからペアを組んでいる国枝慎吾選手については、お互いがどういうプレーをしたいのかを理解し合っているため、大会前の短い合宿などで少し練習することで、時間をかけずにお互いの息を合わせられます。
車いすテニスは健常者とも楽しめるダイバーシティスポーツ
2020年の東京パラリンピックに向けて、車いすテニスの見どころを語ってもらいました。
2バウンドしたボールも打ち返せること以外は、殆ど健常者テニスとルールが変わらないので、見ていてわかりやすいと思います。車椅子操作の技術の高さやスピード感も見どころです。
パラリンピックの種目にはありませんが、車椅子と健常者がペアを組む、ニューミックスや、健常者vs車椅子との試合もあります。障がいにかかわらず、車椅子と健常者が同じコートで楽しめるのは、テニスの魅力だと言えそうです。
48歳で挑む2020年パラリンピック
車いすテニスのプレーヤーとしての強みを齋田選手に聞くと、スピード感のあるチェアワーク、と答えていました。チェアワークを維持するためのフィジカルトレーニングにも時間を費やしており、45歳になった今も、体力や筋力面では向上しているそうです。
2020年の東京パラリンピックについては、
自国で開催されるパラリンピックを出場しないという選択はありません。私は48歳で東京オリンピックを迎えますが、若い選手と戦えるのを楽しみにしています。若い選手が出て来ることで車いすテニスの発展に繋がるし、自分の力を試す場にもなると思うので、彼らに負けないように頑張ります。
プロの障がい者スポーツ選手として、道を切り開いてきた齋田選手。経験値の高さや若い選手にも負けない体力から、2020年のパラリンピックでの活躍も間違いなしです。健常者テニスに引けを取らない、スピード感溢れる車いすテニスに大注目です。
INFORMATION
齋田悟司(さいださとし)
1972年3月26日、三重県生まれ。株式会社シグマクシス所属。
12歳の時に骨肉腫で左足を切断し、14歳で車いすテニスを始める。
1996年アトランタパラリンピックから2016年リオパラリンピックまで、6大会連続出場。
2004年アテネ大会では国枝慎吾選手と男子ダブルスで金メダル、2008年北京大会、2016年リオデジャネイロ大会で銅メダルを獲得。