闘えることが、歓びだ。個のスキルを活かしてつかんだ、リオでの銅メダル
SUPPORT闘えることが、歓びだ。個のスキルを活かしてつかんだ、リオでの銅メダル
ラグ車と呼ばれる車いす同士が激しい音をたててコンタクトする迫力あるプレーと、4人がそれぞれのスキルを活かす緻密な攻防――パラリンピック競技の中で唯一車いす同士がぶつかることが認められているのが、ウィルチェアーラグビーです。ロンドンパラリンピックでの4位から4年。世界ランク3位で挑んだリオパラリンピックでは、3位決定戦でウィルチェアーラグビー発祥国である強豪のカナダを破り、見事銅メダルを獲得しました。彼らのリオへの出発直前に、練習風景を取材。競技の内容を紹介しながら、ウィルチェアーラグビーの魅力に迫ります。
臆することなく激しくプレーして、迫力やインパクトを伝えたい
車いす同士の激しい衝突音が、体育館内に間断なく響く。同じスポーツセンター内の別の施設を利用していた一般利用者が、思わず体育館をのぞきにやってきた。「これは一体、何の競技ですか?」と。
車いすが横倒しになるほどのぶつかり合いが、ウィルチェアーラグビー最大の魅力だ。
「ウィルチェアーラグビーという競技を多くの方に知っていただくには、まず一目見た方に『なんだこのスポーツは!』という迫力やインパクトを伝えることが大事だと思います。私たちが臆することなく激しくプレーして、“見せるスポーツ”としてみなさんの心をつかみたいです」と、日本代表キャプテンの池透暢(いけ ゆきのぶ)選手はアピールする。
1977年にカナダで考案されたこのスポーツは、バスケットボールと同じ広さのコートを使い、試合時間は8分×4ピリオドで行われる。4人対4人で対戦し、ボールを持った選手がゴールライン上に置かれたゴールポストの間を通過すれば得点(1点)となる。
ウィルチェアーラグビーが2000年シドニー大会でパラリンピック正式競技に採用されると、日本代表は2004年アテネ大会から連続出場。2012年ロンドン大会では4位と躍進した。しかし代表メンバーの一人、池崎大輔選手は「まだまだ知名度が低く、競技人口も少ない」と、競技の発展に向けた課題を挙げる。ロンドン大会から4年。彼らはより強くなることで人々の関心を引きつけようと努力した。
「世界のトップ3を崩すことを目標に掲げ、代表合宿や個人トレーニングを積み上げてきました」
エースの池崎選手がそう語るとおり、日本代表はかつて世界3強とされたオーストラリア、アメリカ、カナダから勝利を挙げ、世界ランク3位に浮上。史上最高位を保ったままリオパラリンピックに突入した。
「今までまったく勝てなかった相手から要所要所で勝てるようになったのは、取り組んできたことの成果だと思います。選手たちは勢いづいていて、それぞれの役割の中でトレーニングに励んでいます」
キャプテンを務める池選手も、そのように手応えを口にする。
自分が持つ運動機能にあわせ、それぞれが与えられる役割を果たす
パラリンピック競技に出場する選手たちは、障害の重さ・軽さに個人差がある。そのため、できるだけ公平に競技ができるよう、各選手は体の機能のテストや競技観察などによりクラス分けされる。ウィルチェアーラグビーの場合は、最も障害が重いクラスの選手は0.5ポイント、最も軽いクラスの選手は3.5ポイントというように、各選手が持ち点を与えられており、コート内4人の合計ポイントが常に8.0以内と定められている。
池選手と池崎選手はともに3.0ポイントで、機動力を生かして得点に絡みチームに貢献する。
池選手は、自身の得意なプレーは「高さを生かしてボールを収め、攻撃の起点となって味方にパスを散らすこと」と語る。自陣でボールを受けることの多い彼は、自らランで走り抜けるか、走り出している味方にパスを出すかを瞬時に判断する。「試合時間が残り数秒という場面では、ピンポイントのロングパスをゴール前に出してスコアにつなげることもあります」。
点取り屋の池崎選手の特徴は、チェアースキル(車いすの操作技術)だ。「車いすを自由自在に操りながら相手を翻弄させる動き、トリッキーなプレーで勝負します。あっちに行くと見せかけてこっちとか、こっちに走りながらあっちにパスとか。そういうプレーが好きです」。車いすバスケを15年、ウィルチェアーラグビーを7年という、車いす競技歴22年の経験が生かされている。
現在の日本代表は、[3.0+3.0+1.0+1.0]の4選手の構成をスタンダードとしている。「ゴールまでの過程には、ボールを運んだり、パスを出したり、相手選手の動きをブロックして味方の進路を確保したりと、選手それぞれの仕事があります。全員が自分の責任を果たすからこそ、チームは得点できるのです」と、池崎選手はチームメイトの力があってこその得点だということを強調する。
自分が一番輝くのが、ウィルチェアーラグビー
「僕には何の取り柄もなかったんですよ」
池崎選手はそうつぶやいて、ウィルチェアーラグビーとの出会いがもたらした喜びを語り始めた。
「それが今では、仲間とともに世界に挑戦できている。父親として家族を幸せにできている。僕の人生はウィルチェアーラグビーとともにあると言えますね」
池選手は、ロンドンパラリンピックの銅メダルマッチ、日本対アメリカ戦を見て、ウィルチェアーラグビーの選手になることを決意したという。
「自分の限界に挑戦したい。そこで輝くことによって人にも評価される。自分が一番輝くのが、ウィルチェアーラグビーなんだと思います」
世界の頂点を見据えるウィルチェアーラグビー日本代表だが、それでも経済的な負担は重くのしかかる。ぶつかり合いを繰り返すことによる車いすの損傷は激しく、用具代はスペアのタイヤやチューブを含めて1選手につき150万円前後。しかもそれらを2年ごとに買い替えるという。
「用具代だけでなく、合宿や大会に参加するための費用もかかります。練習すれば伸びる人はたくさんいると思いますが、金銭的な問題で“僕にはできない”とあきらめてしまう場合も多い。その人の人生にとっても、日本全体の競技力にとっても、すごくもったいないことです」(池崎選手)
パラスポーツをサポートする仕組みの一つに、スポーツくじ(toto・BIG)による助成制度がある。スポーツ団体への支援だけでなく、近年はトップアスリート個人への助成がパラスポーツにも拡大され、ウィルチェアーラグビーもその対象となった。
「個人への助成によって、多くの選手が世界に挑戦する機会をいただけています。僕自身も今まで以上に体に気を使いながらトレーニングができているので、すごく助かっています。くじを購入される方はサッカーなどの勝敗予想を楽しんで購入される方も多いと思います。そのような方々に、ウィルチェアーラグビーを知っていただけたらうれしいです。そのために僕たちができることは、みなさんの目に届くような結果を出すこと。みなさんの支援のおかげで、僕たちは一段と高い環境で活動できていますので、感謝の気持ちでいっぱいです」(池崎選手)
「車いす競技は、車いすに乗れば健常者の方たちも含めてみんなが体験できます。助成によって支援いただくことで、より多くの人に魅力を知っていただきながら普及させられれば、より豊かな社会を作っていくことにもつながると思います。実は僕もサッカーが好きで、スポーツくじを買ったことがあります。売上が多方面に分配されることにより、スポーツをさらに広く、熱く盛り上げる力になっていると思います。たくさんの人にスポーツくじを楽しんでいただけたらありがたいです」(池選手)
リオでいいスタートが切れれば、2020年にもその先にもつながる
2020年、東京は世界で初めて「2度目のパラリンピック」を開催する都市として世界中からアスリートを迎え入れる。日本国内でのパラスポーツへの関心も、かつてない高まりを見せている。
世界的なトップアスリートとしての現在の境地、そして2020年からその先の未来に向けてのビジョンを、二人が語った。
「勝つための道のりはけっして楽ではありませんが、勝ったときに仲間と喜びを分かちあえる瞬間というのが、僕は一番好きです。パラリンピックの盛り上がりを感じる今こそ、この機運を次世代のための環境づくりにつなげていきたいです。リオでいいスタートが切れれば、間違いなく2020年にもその先にもつながると思います」(池崎選手)
「私は事故にあい障害を負って、それまで好きだったサッカーやバスケットボールができなくなりました。でも、道具やルールが工夫されることによって、私たちもスポーツに取り組むことができ、パラリンピックという最高峰の舞台にも挑戦できます。日本代表は将来に向けて、国内合宿や海外遠征の機会をどんどん増やし、新しい戦力も鍛え上げながらチーム全体をレベルアップさせていくことが重要だと思います。現在は代表合宿を限られた場所だけでおこなっていますが、今後はいろんな地方を回り、たくさんの方々に知っていただく機会を増やせたらと思います」(池選手)
(2016年8月、東京都渋谷区にて)
INFORMATION
池 透暢 いけ ゆきのぶ
1980年7月21日、高知県高知市出身。Freedom/日興アセットマネジメント所属。3.0クラス。
19歳の時に交通事故で左足を切断、左腕の感覚も失う。その後始めた車いすバスケットボールで日本代表の候補に選ばれるも、2012年ロンドンパラリンピックでは落選。ロンドンパラリンピックでウィルチェアーラグビーを見たことがきっかけで競技を転向し、日本代表キャプテンとしてチームを牽引する。
INFORMATION
池崎 大輔 いけざき だいすけ
1978年1月23日、北海道函館市出身。北海道 Big Dippers/三菱商事所属。3.0クラス。
幼少時にシャルコー・マリー・トゥース病を発症し、高校2年の時に車いすバスケットボールを始める。30歳でウィルチェアーラグビーに出会い、転向。2010年に日本代表に選ばれ、2012年のロンドンパラリンピックに出場。2015年のIWRFアジアオセアニアチャンピオンシップでは3.0クラスベストプレーヤー賞及びMVPを受賞。