JFL経由オランダ行 山崎直之のサッカーライフ

JFL経由オランダ行 山崎直之のサッカーライフ WATCH

JFL経由オランダ行 山崎直之のサッカーライフ

スポーティ

近年の日本サッカー界はJリーグを経由せずに、欧州でプロキャリアを始める選手が増えつつあります。宮市亮選手(独2部:ザンクト・パウル)を筆頭に続々とヨーロッパでデビューする選手が増えつつありますが、欧州でキャリアを始めるには年齢が若い選手でなければ難しいと言われています(宮市選手は18歳でデビュー)。そんな中25歳と遅咲きながら、オランダでプロになった山崎直之(オランダ2部・SCテルスター)選手は、クラブの2部残留に大きく貢献。しかし、オランダ2部で注目されている彼のキャリアは順風満帆なものではありませんでした。

トップチームに上がれず大学へ。そこでの大きな失敗

2009年、FC東京U-18に所属していた山崎選手は「トップチーム昇格の最終候補」に残されていました。最終的にクラブから「トップ昇格は難しい」と言い渡され、失意の中、東京学芸大学へ進学しました。

クラブからトップ昇格の判断を下されるのが遅かったので、進路の選択肢が少なかったんですよ。急遽大学を探さないといけなくなり、実家から通える大学を探しました。学芸大は当時2部リーグでしたけど、環境が整っていたので。僕が1部昇格に貢献するぐらいの気持ちで、学芸大に入りました。

彼は大学進学後も、プロになることを諦めていませんでした。大学1年時はチーム最多得点と新人王に輝き、翌年は1部昇格の原動力に成長。山崎選手は慢心せずに「誰よりも努力をすれば、プロになれる」と信じて、練習に励みました。しかしそれが皮肉にも裏目に出てしまったのです。

あの当時は、やるべきことをやっていませんでしたね。僕は練習も筋トレも、誰よりも多くトライしていましたけど、それじゃだめだった。僕は我武者らに練習すればプロになれると思い込んでいて。結果的にトレーニングをすることに満足してしまった。そのせいもあって不調に陥ってしまったんですよ。

本来はパフォーマンスを向上させるように、調整しなければいけません。僕の場合、トレーニングのやりすぎで不調になることもザラで…。それに練習の翌日に調子の上り下がりなどの確認も怠りました。人一倍プロになりたいといった欲はありましたけど、焦りもあって上手くはいきませんでしたね…。


サッカー教室で子どもたちにサッカーを教える山崎選手

調整に失敗した彼は、プレーに精彩を欠きます。その後も調子は上がらず、プロクラブから声はかかりませんでした。一方、大学の同期でユース出身の茶島雄介選手は、古巣のサンフレッチェ広島に返り咲きます。「トップチームに昇格できなかった」境遇を持つ彼らの将来は、明暗が分かれてしまいました。そこに焦りはあったかと尋ねると、山崎選手は淡々と話します。

そうですね。入学したころは、茶島と差はありませんでしたからね。彼は体調管理や調整だったりと、やるべきことをやっていました。そういった面で、プロになれるか、なれないかという差が出たと思います。

JFLやトライアウトに挑戦、運も重なりオランダへ。

2014年に当時JFLだったアスルクラロ沼津に入団するも、大学時代の不調を引きずる形で実力を発揮できませんでした。しかし、徐々に自身の調子も上向きになっていきます。

最初はJFLなどで経験を積んで、プロクラブを目指していました。だけど、大学卒業してからの初年度も調子が安定しなくて…。アスルクラロでは思ったようにはいきませんでしたね。HBO東京(当時、東京都1部)に入ってから、徐々に調子も上がってきました。Jのトライアウトも挑戦していて、手応えがあったチームもあったのですが…。結局受け入れてもらえませんでした。

なかなか国内で芽が出ない状況でしたが、山崎選手は徐々に海外へと視点を変えていきます。客観的に実力を評価する海外で自分のプロとしての可能性を改めて模索しようとしました。

僕のイメージですが、海外はフラットに見てくれる印象があります。純粋にプレーを評価して欲しい気持ちで、海外に挑戦するようなりました。最初にフィンランドのHJKヘルシンキに挑戦して、その後はアメリカですね。当時アドリアーノが入団したマイアミ・ユナイテッドのトライアウトがありました。注目度も高いし、僕を欲しがる欧州のクラブもなかったので受けたわけです。僕を含めて3人の選手がトライアウトを受けて、僕だけが残りました。3ヶ月ぐらいアメリカにいましたけど、最後はビザの関係で入団はできなくて。


テルスターで21番を背負う山崎選手、チームメイトからの信頼も厚い

海外でプロを目指す山崎選手に、一筋の光明が見えてきました。オランダでプロになれる可能性が出てきたのです。

HBOにいたころ、オランダ人指導者を紹介されたことがありました。その彼から、オランダ二部のテルスターの練習に参加できるチャンスがあると教えてもらって。このチャンスを逃したらプロになることは、もうないなと思って、オランダへ飛び込みました。そのトライアウトは『最初の一週間でダメなら帰れ』と言われましたけど、プレーが評価されて『残ってくれ』と。懸念していたビザも問題なく発行されてホッとしました。入団のタイミングが良かったのもあります。

100年前に日本とオランダが締結した「日蘭通商航海条約」は、日本人をオランダ人と同じ扱いにするといった旨が書かれています。この条約によりEU圏国籍を持たない選手が課される「最低年俸保障(EU圏外の国籍を持つ選手に、最低35万ユーロ以上支払わなければならない)」が、日本人選手は対象になりませんでした。今年の1月から条約改正により、この条文が無効になってしまいます。そのため山崎選手は千載一遇のチャンスにも助けられ、晴れてプロになることができました。

あの時の失敗が自分を強くする。オランダの侍が夢見る青写真とは

テルスター入団後、24試合に出場した山崎選手。記録した得点は残留争いのクラブを救うものであり、リーグ終盤となる3月からリーグ終了までに3得点1アシストをし、チームの救世主となりました。劇的にパフォーマンスが向上した理由は、大学時代の失敗があったからこそだと彼は話します。

僕は大学生のころに、トレーニングで失敗しました。そこで、自主トレの方法や生活面を見直したんです。例えばストレスを溜めないように過ごすことを心掛けています。あとはセルフケアのポイントを変えたり、食生活の見直しや、水分補給を増やしたり。ちょっとした細かいところを変えたら、徐々にスプリント回数も増えてきました。重要な場面で走りきれるのは大きな自信になっています。もともと僕はスプリントや、オフザボールの動きが弱点でした。それが改善傾向にあるので、長所のキープ力やドリブルと組み合わせていきたいです。

クラブは残留を達成し、来季も2部リーグで戦います。オランダ2部といえば、ACミランの本田圭佑選手がMVPを獲得してキャリアアップしたリーグ。日本人選手にとって縁のあるリーグでプロになった山崎選手、最後に彼が描いている青写真を教えてもらいました。


ゴール・セレブレーションに参加する山崎選手

僕が入団する前に、テルスターにはステファノ・リリパリ(元コンサドーレ札幌、現在カンブールSC)選手がいました。彼は今シーズン11ゴールも決めていて、クラブも昇格争い中。今いるクラブからステップアップしていった選手がいたのは刺激的でした。僕は最終的にスペインやイングランドを目指しています。まずは強豪国の周辺国でステップアップに挑戦したいですし、オランダ国内ならアヤックスに行きたいですね。実際にアヤックスのBチームと試合しても、遠い存在だと感じません。その試合ではアシストも決めたので自信になりました。

オランダはJリーグよりも情報が少ないので、目に見える結果を出していきたいですね。結果を出した先に、目標にある日本代表入りも見えてくると思います。できる限り、欧州に残って実績を積み重ねていきます!

彼は今もオランダで、プロフットボーラーとして戦っています。一見遠回りに見えるキャリアかもしれませんが、大学時代に経験した失敗を糧に成果を得ました。山崎選手が示した「失敗を成功の糧にする」諦めない気持ちは、プロの矜持と言っていいでしょう。シーズンを終えた彼は、その誇りを抱いて来季の戦いを見据えています。

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