ポーランドの侍が常夏の地に挑戦!元浦和レッズ赤星貴文がタイに渡ったわけ

ポーランドの侍が常夏の地に挑戦!元浦和レッズ赤星貴文がタイに渡ったわけ
3月も半ばに入り、春の気配を感じる今日。4月から大学生や社会人になる方々は、新たな挑戦に期待と不安を抱いていると思います。今回のインタビュー記事は「新しいチャレンジ」をテーマにしています。ポーランドで印象的な活躍を果たし、新しい刺激を求めてタイへ電撃移籍した赤星貴文選手に、自身の経験を通じて「挑戦」することの大切さを聞きました。
トップ画像:浦和レッズ時代の赤星貴文選手
赤星選手は浦和レッズでキャリアを始め、ラトビア、ポーランド、ロシア、タイと様々な国でプレーをしてきました。海外移籍初挑戦の経緯を教えてください。
きっかけは、モンテディオ山形の契約満了でした。ちょうどルーマニアでプレーしていた中村祐輝(赤星選手が通っていた藤枝東高校の後輩、元ジュビロ磐田)から、海外挑戦するなら代理人を紹介するよと誘われて、ポーランドに1ヶ月半ほどテストを受けに行きました。ですが、その時は上手くいきませんでしたね。
テスト前にツエーゲン金沢から「もし海外挑戦に失敗しても、待つので入団しないか」と誘いを受けました。僕もコンディションを上げて再び海外挑戦をしたいと考えていたので、ツエーゲン金沢で半年間プレーしました。クラブが「いつでも海外挑戦していいから、うちに来てくれと」と言ってくれたのも大きかったですね。
そして、夏のタイミングで数クラブからテストの話を貰いました。その中に、ラトビアのリエパーヤス・メタルルグス(以後リエパーヤ)が前年リーグ優勝をしていて、チャンピオンズリーグの予選会に出ると聞きました。ヨーロッパでのキャリアがなかったので、キャリア作りのためにリエパーヤに決めました。
その後、赤星選手はポーランドに渡りました。ポゴン・シュチェチンに移籍した経緯を教えてください。
リエパーヤとの契約も4ヶ月で終わり、レベルの高いところでやりたいと思っていました。ポーランドの数チームから興味を貰たれていて、その中にポゴン・シュチェチン(以降、ポゴン)がありました。当時2部のポゴンのテストを受けたら、即決で決まりました。他に声をかけてくれた1部のチームとの契約もすぐに決まるか分からなかったので、ご縁があると思ってポゴンと半年間の契約を結びました。
ポゴンに入ってから、チームの昇格を達成。それまでの道のりを振り返ってみて、どのようにシーズンを過ごしましたか。
最初の半年はチームが2部でも14位から15位で、3部に落ちそうなぐらいになっていて(笑)。その半年間でチームの状況も好転したのですが、シーズン終了後に1部のチームからオファーがきました。この時点ではポゴンも2部だったので、僕も1部のチームに行きたい気持ちがありました。クラブからどうしても1部に上がりたいので残ってくれと言われ、給料などの待遇を良くしてくれました。結果的に1年で1部に上がれて、僕の中でも昇格はキャリアで初めての経験でした。本当に嬉しかったし、海外に来る前は言語の問題もあって、本当に上手くやれるか不安な面がありましたから。チームの一員として、外国人としてここに来られたのはラッキーでした。
ポゴン・シュチェチン時代の赤星選手
FCウファについての質問に入ります。ロシアで半年間を過ごしましたが、赤星選手にとってこの挑戦はどのようなものになりましたか。
自分の中では悪い挑戦ではなかったんですけど、新しいチームだったので難しさもありました。怪我が多く、言語や環境の違いもありましたね。街もポーランドより奇麗ではなかったし、言葉もロシア語が中心でした。ポーランド人のほうが英語を話しますからね。
怪我した時は大変で、リハビリも自分でやらなきゃいけなかったので(スタッフやクラブからのサポートも受けられなかった)。やっぱりメディカル系の環境がしっかりしていないときついですね。コンディションを自分だけで作り上げていくのが大変でした。ロシアでは寒さの影響で腰、膝や関節の負荷も大きかったのに加え、人工芝なのもあって足首にひどい捻挫を負ってしまいました。
あと、ウファは小さいチームでした。それこそ、本田圭佑がいたCSKAモスクワのような大きなクラブは環境面が整っていると思います。(ロシアの)下のチームだとピッチも人工芝ですし、お客さんも寒いので中々入らないです。
FCウファ時代の赤星選手
この後ポーランド復帰するわけですが、コンディション面以外の理由があったとか。
はい。ポーランド復帰には他の理由もあって、僕がロシアにいた頃はウクライナとロシアが戦争をしていました。僕の給料はロシアのルーブル(ロシアの通貨)で貰っていましたけど、ルーブルが45〜50%も(通貨の)価値が落ちてしまって。その影響でたくさんの外国人選手がロシアから出てしまったんですよ。ドルで貰っていた選手は残りましたけど、ルーブルで貰っていた選手は大変だったわけです。チームによって違いますけど、ウファはドル計算のルーブル支払いだったのですが、結局決まったルーブルを支払うという契約書にサインしなければいけませんでした。だからルーブルの価値が下がっても、(クラブから)支払われるルーブルは変わりません。単純に給料が半分になったらきついじゃないですか。一歩間違えたら、ポーランドの条件(ユーロ計算のズロチ[ポーランド通貨]払い)が良くなるぐらい急落しちゃいましたからね。(経済が)回復する見込みも3〜4年ぐらいかかるかもしれないという状況で、トータルで考えて給料が少し下がったとしてもポーランドに戻ることを決めました。
そういった条件や情勢面も移籍する理由の一つになったりしますからね。トルコにいた瀬戸貴幸くん(ルーマニア1部アストラ所属)も試合出場数に関わらず、テロの影響もあったと思いますし。(情勢不安の国だと)家族は簡単に外へ出られませんから。こういった情勢面も移籍の理由になりえます。
ポーランド復帰についてお聞きします。ポーランド復帰後はコンディションの影響もあって、リザーブ落ちを経験するなど辛い時期を過ごしたと思います。振り返ってみて、ポーランド復帰はいかかでしたでしょうか。
全ては怪我でしたね(苦笑)。ロシアでやった足首もよくなっていませんでした。さらに恥骨結合炎(恥骨のグロインペイン)になってしまって。股関節の怪我なんですけど、ボールを蹴るだけでも痛いといった感じで、サッカー選手に多い怪我です。人によっては(プレーが)できなくもないけどずっと痛くて、ひどい場合は痛くてサッカーが半年ぐらいできなくなります。足首を怪我したせいで体のバランスを崩し、股関節に無駄な力がかかって(恥骨結合炎)なったと思います。それ以外にチームの調子やメンバーが変わるなど、最初は上手くいきませんでした。恥骨が回復しても、ふくらはぎの肉離れ(1ヶ月離脱)で、復帰できそうでできない状況が続きました。クラブは僕のことを信頼してくれていて、コンディションが整えばクラブの力になると言われていました。最後のほうは回復して、出場できるようになりました。
フッキ選手とツーショットを撮る赤星選手
ポーランドでキャリアを続けていましたが、今年始めにタイのラーチャブリーFCに移籍が決まりました。この電撃移籍の背景を教えてください。
一番の理由は自分の年齢や家族のこともありますし、ポーランドで長くサッカーしていたので、環境を変えたいというのもありました。あと、僕の友達の村山拓哉(ポゴンでも同僚だった時期があり、一年前にラーチャブリーFCに移籍)がラーチャブリーでプレーしていたのもあって、チームに僕のような選手が必要だと言われていました。僕の中でも、30歳だし新しい挑戦として(タイが)いいと思いました。タイはポーランドよりも暖かいですし、条件面もポーランドよりは良かったですからね。
日本復帰は考えていませんでしたか。
それはなかったですね。僕は海外では長かったですし、ヨーロッパはやったけど、アジアではやったことがなかったので。プレーの環境面は日本のほうが良いですけど、外国人選手として扱われるほうが僕に向いています。活躍しなかったらすぐクビになりますし、プレッシャーがかかる中でプレーするのが好きですね。
ラーチャブリーFCで活躍する赤星選手。右が赤星選手。
新天地をタイにしたわけですが、長くやっていた欧州と違いがあると思います。タイに来て驚いたことや今後の目標を教えてください。
(驚いたことは)ルーズさですね(笑)。ルーズじゃない人もいますけど、本当に時間にはルーズです。練習時間も当日にならないと分からない感じですし、大変ですよ(笑)。
優勝を経験したいのもありますし、もっと上手くやれると思っています。このリーグで新しい歴史を作りたいですし、この国に名前を残せるように頑張れたら良いですね。
挑戦することの大切さを教えてください。
新しい環境で挑戦することは、自分の人生観、人に対する考え方や物事の考え方をオープンにすることだと思います。挑戦することは新しい発見や人間的に変われるチャンスを与えてくれる場だと考えています。
赤星選手は様々な国で成功と挫折を経験し、新しい挑戦をしています。彼がいうように、新たな挑戦は人間として成長できる大きなチャンスです。このインタビューがこれからチャレンジする人へのエールになれば幸いです。
INFORMATION
赤星貴文
静岡県富士市出身、1986年5月27日生まれ。
小学生のころに地元のサッカー少年団でキャリアを始め、中学時代に清水エスパルスジュニアユースに所属し、クラブ日本一を経験した。高校進学後はユースに進まず、名門藤枝東高校サッカー部に入部。1年生からスターティングメンバーに定着し、3年時には国体優勝を果たす。2005年に浦和レッズに入団、その後は水戸ホーリーホック、モンテディオ山形、ツエーゲン金沢に所属した。2010年からラトビア王者のリエパーヤス・メタルルグスに移籍、わずか4ヶ月で15試合6得点と傑出した活躍を披露した。翌年ポーランドのポゴン・シュチェチンに加入。2012年はチームの昇格に貢献し、2013—2014シーズンには35試合7得点9アシストとリーグ屈指の成績を残す。2014年8月にロシア1部FCウファにステップアップを果たしたが、負傷や情勢不安の影響により半年で古巣のポゴンに復帰した。今年に入って長く過ごした欧州を離れ、新天地タイのラーチャブリーFCに電撃移籍。タイ国内では注目されている選手の一人だ。